“花魁(おいらん)の話をついでにもうひとつ。
最高の地位にある遊女を、上方では太夫(たゆう)江戸では花魁と呼んだそうです。
当時、吉原には二千名の娼婦がいたが花魁になれるのは、多いときで六、七人少ないときで
二人というときもあったそうです。
花魁になるための資格は、一切の教養を持っていることで、
それは文字が上手で、和歌もうまい。
碁、将棋が出来て、小唄、端唄(はうた)、三味線、太鼓などの諸芸が一通り出来ること。
そのうえ、健康で美人でなければいけなかったそうです。
しかも花魁は転落制度で、もし、客に不行届きなことをしたり、
教養が足りないことを疑われたら地位から転落して
下のものがよければ上にあがる。
そういう常に努力を必要とする大変な地位だったようです。
その代わり、年季明け(27歳)には引く手あまたで、
有名な商家の夫人になったり、大名の側室に入ったりするそうです。
蛇足ですが、当時の元禄時代(1688~1704年)で、花魁は一晩十両、
京都の島原でも十両から十五両、現在で言うと数十万円だそうです。”
- 【文化】ジャポニスム【世界の中の日本】スレのまとめ ジャパンと日本(part2スレ) (via pinto)
2011-09-08 (via gkojax-text)
最高の地位にある遊女を、上方では太夫(たゆう)江戸では花魁と呼んだそうです。
当時、吉原には二千名の娼婦がいたが花魁になれるのは、多いときで六、七人少ないときで
二人というときもあったそうです。
花魁になるための資格は、一切の教養を持っていることで、
それは文字が上手で、和歌もうまい。
碁、将棋が出来て、小唄、端唄(はうた)、三味線、太鼓などの諸芸が一通り出来ること。
そのうえ、健康で美人でなければいけなかったそうです。
しかも花魁は転落制度で、もし、客に不行届きなことをしたり、
教養が足りないことを疑われたら地位から転落して
下のものがよければ上にあがる。
そういう常に努力を必要とする大変な地位だったようです。
その代わり、年季明け(27歳)には引く手あまたで、
有名な商家の夫人になったり、大名の側室に入ったりするそうです。
蛇足ですが、当時の元禄時代(1688~1704年)で、花魁は一晩十両、
京都の島原でも十両から十五両、現在で言うと数十万円だそうです。”
- 【文化】ジャポニスム【世界の中の日本】スレのまとめ ジャパンと日本(part2スレ) (via pinto)
2011-09-08 (via gkojax-text)