最近になって気がついた読書方法。いちどやると世界が変わる。
耳栓をする。
新しいiPadに小説のPDFを入れる。
部屋を真っ暗にする。
PDFの表示を白黒反転する(そういう機能のあるPDFアプリを使うか。iPhoneの弱視モードでもできる)。
真っ暗な空間の中に、超高精細な白い文字だけが浮かんでいる未知の読書体験。
なにこれ、ものすごい没入感!!
- まったく未知の読書体験をしてみよう | fladdict (via a2onaka)
2012-03-31
(via mmtki)最近になって気がついた読書方法。いちどやると世界が変わる。
耳栓をする。
新しいiPadに小説のPDFを入れる。
部屋を真っ暗にする。
PDFの表示を白黒反転する(そういう機能のあるPDFアプリを使うか。iPhoneの弱視モードでもできる)。
真っ暗な空間の中に、超高精細な白い文字だけが浮かんでいる未知の読書体験。
なにこれ、ものすごい没入感!!
2012-03-31
(via mmtki)以前あるテレビ番組で細木数子が司会者に「最近よく出るようになった池上彰さんはどうですか?」と聞かれ、ムスっとした表情で「あの人はダメ、民放に出るようになってからダメになった」と言っているのを見たことがありました。
当時はなんで細木数子が池上彰をダメと言っているのか良くわかりませんでしたが、この動画を見て納得です。
こんな事やってるようじゃもう池上彰もおしまいですね。
第43回入賞作品 中学校の部 文部科学大臣奨励賞 (via to)原文必読。天才。感動した。最後に先生やこの賞を贈った人間たちやらがコメントなどは、この子を表するにはあまりに足りない。この子の才能はこの評者たちをはるかに凌ぐものだし、もはや中学生にして僕達よりずっと問題解決能力が高い。
一番感動を誘うのはイシューにダイレクトに切り込んでいく態度。完全に大人たちを置き去りにしている。知的な態度というのか、怒りが原動力にでもありそうな、しかし非常に客観的に論考と実証でつぶしていくさま。
問題の発見も素晴らしい(どのようにものを見ているのかが透けて見えるが中学生でこの目は凄い)からそのイシューの特定がぶれないことも素晴らしい。解決に向かう、分解、MECEな組合せづくりと実験、それらによって効率的に可能性の範囲を特定し、的確に方向づけしていく才能。頭でっかちで実験をする方法によるステッピングをしなかったことをばっさり切ってのけているのもドキドキしながら読んだ。実証や実験の設定などに、高い現実的な能力が備わっているのも見て取れる。これらの兼備とこの年令での発動は天才としか言いようがない。こんなことが経験をつまずに生まれつきの能力などでできるのか、と衝撃を受けた。
(via toukubo)【画像】封印された日本のタブー…人権を無視した某集落の奇習「おじろく・おばさ」 | ニコニコニュース
長男以外の人間は、結婚もできず、世間との交流すら許されず、死ぬまで家のために奴隷のごとく働かされる……。いったい、いつの時代の、どこの国の話だと思われるかもしれない。しかしこれは、日本に20世紀まで実在した「おじろく・おばさ」という風習なのである。
国土の7割が山である日本。山林によって隔絶された村では、独自の文化が発生する場合が多い。昔の長野県神原村(現・下伊那郡天龍村神原)もその一つだ。
耕地面積が少ないこの村では、家長となる長男より下の子供を養う余裕がない。そのため、家に残った下の子供は「おじろく(男)・おばさ(女)」と呼ばれ、長男のために死ぬまで無償で働かされた。
家庭内での地位は家主の妻子よりも下で、自分の甥っ子や姪っ子からも下男として扱われる。戸籍には「厄介」とだけ記され、他家に嫁ぐか婿養子に出ない限り結婚も禁じられた。村祭りにも参加できず、他の村人と交際することも無かったため、そのほとんどが一生童貞・処女のままだったと推測される。将来の夢どころか趣味すらも持たず、ただただ家の仕事をして一生を終えるのである。
そんな奴隷的な状況が、ある種の精神障害をもたらすのだろう。おじろく・おばさは無感動のロボットのような人格となり、言いつけられたこと以外の行動は出来なくなってしまう。いつも無表情で、他人が話しかけても挨拶すら出来ない。将来の夢どころか趣味すらも持たず、ただただ家の仕事をして一生を終えるのである。
16~17世紀頃から始まったとされる「おじろく・おばさ」制度だが、もちろん現在の神原では、このような制度は存在しない。ただ明治5年でも190人、昭和40年代に入っても3人のおじろく・おばさが生きていたというから驚きだ。
この辺りの状況を報告しているのが、『精神医学』1964年6月号に掲載された近藤廉治のレポートである。近藤は現存していた男2人、女1人のおじろく・おばさを取材し、彼らの精神状態を診断している。普段の彼らにいくら話しかけても無視されるため、催眠鎮静剤であるアミタールを投与して面接を行ったそうだ。すると固く無表情だった顔が徐々に柔らかくなり、ぽつりぽつりと質問に答えるようになったという。以下、その答えを抜粋してみよう。
「他家へ行くのは嫌いであった。親しくもならなかった。話も別にしなかった。面白いこと、楽しい思い出もなかった」
「人に会うのは嫌だ、話しかけられるのも嫌だ、私はばかだから」
「自分の家が一番よい、よそへ行っても何もできない、働いてばかりいてばからしいとは思わないし不平もない」
(『精神医学』1964年6月号・近藤廉治「未分化社会のアウトサイダー」)
なにごとにも無関心で感情が鈍く、自発性が無くなった様子がうかがえる。
この「おじろく・おばさ」の取材に先立ち、近藤は二つの推論を持っていたようだ。一つは、もともと遺伝による精神障害が多い集落であり、そのような人々がおじろく・おばさになるのではという説。もう一つは、気概のある若者は村の外に出てしまい、結果、無気力な者だけが残ったという説。しかしこの二つともが間違いであり、長年の慣習に縛られた環境要因によって、人格が変化してしまったのではというのが近藤の結論だ。彼らの多くが子供時代には普通で、20代に入ってから性格が変わってしまうというのも、その裏づけとなるだろう。
今の我々からすれば非人間的にも思える「おじろく・おばさ」だが、一つの村社会を継続するためにやむをえない部分もあったのだろう。現在の地点から善悪を断罪することは、ここでは差し控えよう。
ただもう一つ、この因習から読み取れるのは、疎外された環境が人格に影響を与えてしまうという点だ。これについては、劣悪な労働状況によって精神を病んだり、ひきこもりによるコミュニケーション障害など、現在の日本社会につながる部分もあるのではないだろうか。
疎外された状況に置かれれば、それにやむなく適応するために人格も変化する。例えばブラック企業の言うような「本人が納得して働いているのだから問題はない」というのは、視点がズレた言い訳にすぎない。
今は廃絶された「おじろく・おばさ」制度だが、社会が個人に影響を与える一つ例として着目してみれば、さまざまな示唆を与えてくれるだろう。