“今日の甲州はよく晴れましたが、まだまだ朝晩はかなり冷え込みます。本格的な春の到来が待たれるところです。
さて、深刻さを増す福島の原発事故ですが、これについて最近考えていることをここで少し。
まずこれを書く前にここでお断りしておかなければならないのは、私は別に原発の推進派でも反対派でもなく、あくまでも今回の原発事故の及ぼす影響に憂慮している一国民だということです。
しかしそうは言ってもとにかく気になっている疑問が、なぜここまで原発というものが怖がられるのか、という問題。
私がなぜこんなことを考えたのかというと、CNNの(元オフェンシブ・リアリストの)ザカリアの番組のブログの記事の中に、「過去数十年間にわたる原発の事故による死者というのは、他のエネルギー関連の死者数よりも遙かに少ない」ということが書かれていたからです。
たとえば石炭だと中国や最近のニュージーランドでの炭鉱の事故で大量の死者を出しておりますが、原発ではチェルノブイリで出ただけで、スリーマイル島では直接の死者数はゼロ。石油関連では過去40年間で2万人以上が死んでいる、と。
それよりもわかりやすいのが、たとえばわれわれが普通に使っている「車」は、日本でさえ年間1万人前後、アメリカだと毎年3万人ほどの命をコンスタントに奪っております。
つまり単純な死者数で考えると、どう考えても「原発」よりも「車」のほうが危険なテクノロジーということになるわけですが、なぜか原発のほうが恐れられております。
もちろん広島・長崎などの原子爆弾の投下による被害を受けた唯一の国として、日本には核エネルギーに対する猛烈な不信感があることは当然なのですが、それにしても単純に「死者数を出す」という危険性からみたら、どう考えても車のほうが「危険」な存在です。
そこで少し考えてみたんですが、どうやらわれわれが感じるこの「原発」と「車」という二つのテクノロジーについての「危険度の感覚の違い」には、われわれ個人がコントロールできる範囲というものがひとつの要素として絡んでくるのでは、ということ。
これを単純に言えば、人間には以下のような二つの原則が成り立つのではないか、ということです。つまり、
●自分がある程度コントロールできている(と感じる)場合→危険だと感じない。
●自分のコントロールが効かない(と感じる)場合→危険だと感じる。
ということです。
もちろん上は「車」というテクノロジーでして、これはあくまでもリスクの管理は個人の責任ということになり、安全に使えるかどうかというのも、かなりの部分は個人の技量によって左右されるもの。つまり自己責任だからOK。
そうなるとどうやら人間というのは、毎年死者数を1万人出すようなテクノロジーでも「危険だ」とは感じにくくなるわけです。
それとは反対に、下の例の典型が「原発」であり、これは国家プロジェクトとしてエリートたちが、一般人の手の届きにくい知識や複雑な機器を使って勝手に管理しており、とくに今回のような事故では、まさに制御が効かない「コントロール不能」の事態に陥っております。
そうなると、まだ(直接的な原因による)死者は出ていないのに、人間の感じる恐怖感は劇的にアップするわけです。
もちろんこのようなことを書くと「こいつは原発を擁護している、けしからん奴だ!」ということになりそうですし、そう言われても仕方ないと思っておりますが、私がここで本当に言いたかったことは、最近の報道を見てつくづく感じるのは、
「人間社会で大きな影響力を持つのは、事実そのものよりも“人々がどう感じるか”のほうである」
ということなのです。
そしてその「感じ方」という面で大きな役割を果たしているのが、実は人々がそのテクノロジーを「コントロールできていると感じているかどうか」という点にあるのかと。”
- 地政学を英国で学ぶ : 原発事故とコントロール(の感覚)の問題 (via pinto)
さて、深刻さを増す福島の原発事故ですが、これについて最近考えていることをここで少し。
まずこれを書く前にここでお断りしておかなければならないのは、私は別に原発の推進派でも反対派でもなく、あくまでも今回の原発事故の及ぼす影響に憂慮している一国民だということです。
しかしそうは言ってもとにかく気になっている疑問が、なぜここまで原発というものが怖がられるのか、という問題。
私がなぜこんなことを考えたのかというと、CNNの(元オフェンシブ・リアリストの)ザカリアの番組のブログの記事の中に、「過去数十年間にわたる原発の事故による死者というのは、他のエネルギー関連の死者数よりも遙かに少ない」ということが書かれていたからです。
たとえば石炭だと中国や最近のニュージーランドでの炭鉱の事故で大量の死者を出しておりますが、原発ではチェルノブイリで出ただけで、スリーマイル島では直接の死者数はゼロ。石油関連では過去40年間で2万人以上が死んでいる、と。
それよりもわかりやすいのが、たとえばわれわれが普通に使っている「車」は、日本でさえ年間1万人前後、アメリカだと毎年3万人ほどの命をコンスタントに奪っております。
つまり単純な死者数で考えると、どう考えても「原発」よりも「車」のほうが危険なテクノロジーということになるわけですが、なぜか原発のほうが恐れられております。
もちろん広島・長崎などの原子爆弾の投下による被害を受けた唯一の国として、日本には核エネルギーに対する猛烈な不信感があることは当然なのですが、それにしても単純に「死者数を出す」という危険性からみたら、どう考えても車のほうが「危険」な存在です。
そこで少し考えてみたんですが、どうやらわれわれが感じるこの「原発」と「車」という二つのテクノロジーについての「危険度の感覚の違い」には、われわれ個人がコントロールできる範囲というものがひとつの要素として絡んでくるのでは、ということ。
これを単純に言えば、人間には以下のような二つの原則が成り立つのではないか、ということです。つまり、
●自分がある程度コントロールできている(と感じる)場合→危険だと感じない。
●自分のコントロールが効かない(と感じる)場合→危険だと感じる。
ということです。
もちろん上は「車」というテクノロジーでして、これはあくまでもリスクの管理は個人の責任ということになり、安全に使えるかどうかというのも、かなりの部分は個人の技量によって左右されるもの。つまり自己責任だからOK。
そうなるとどうやら人間というのは、毎年死者数を1万人出すようなテクノロジーでも「危険だ」とは感じにくくなるわけです。
それとは反対に、下の例の典型が「原発」であり、これは国家プロジェクトとしてエリートたちが、一般人の手の届きにくい知識や複雑な機器を使って勝手に管理しており、とくに今回のような事故では、まさに制御が効かない「コントロール不能」の事態に陥っております。
そうなると、まだ(直接的な原因による)死者は出ていないのに、人間の感じる恐怖感は劇的にアップするわけです。
もちろんこのようなことを書くと「こいつは原発を擁護している、けしからん奴だ!」ということになりそうですし、そう言われても仕方ないと思っておりますが、私がここで本当に言いたかったことは、最近の報道を見てつくづく感じるのは、
「人間社会で大きな影響力を持つのは、事実そのものよりも“人々がどう感じるか”のほうである」
ということなのです。
そしてその「感じ方」という面で大きな役割を果たしているのが、実は人々がそのテクノロジーを「コントロールできていると感じているかどうか」という点にあるのかと。”
- 地政学を英国で学ぶ : 原発事故とコントロール(の感覚)の問題 (via pinto)