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パラオの尋常小学校では、文字をもたないパラオの人々のために、
日本語教科書を用いて、日本語教育を行った。
中島敦(なかじまあつし)という作家をご存知でしょうか?
「李陵」「弟子」「名人伝」など、格調高い文芸作品を残した方ですが、彼は、このパラオ南洋庁の、国語教科書編集書記だった。彼の作った教科書で学んだパラオの老人たちは、いまでも日本語を話すことができる。
中島敦は、パラオ赴任中に有名な「山月記」を著わしています。
パラオの人々は優秀で、小学校1年生ですら掛け算九九を暗証できたといいます。
そして第二次世界大戦がはじまる。
日本は、1941年にはパラオ南部のペリリュー島に、1200M滑走路2本の、飛行場を完成させている。
パラオは、日本軍にとって、グアムやサイパンの後方支援基地として、また日本の絶対的防衛圏上の、重要な拠点だったのです。
ところが、フィリピン奪還に総力をあげる米軍にとって、フィリピン戦の背後をとるパラオ・ペリリュー島の日本軍基地は、まさに目の上のたんこぶになった。
そこで、米軍は、アメリカ太平洋艦隊司令長官、連合軍中部太平洋方面の陸海空3軍の最高司令官であるチェスター・ニミッツ提督の指揮下、このパラオ・ペリリュー島の攻略作戦を計画する。
1943年の時点で、ペリリュー島には、899名のパラオの村人がいた。
刻一刻と迫る米軍。
村人たちは、白人統治の時代を知っています。
そして日本統治の時代も、身をもって経験している。
日本兵と仲良くなって、日本の歌を一緒に歌っていた村人は、仲間たちと話し合った。
そして村人たちは、大人も子供も、「一緒になって日本軍とともに戦おう。」
そう決めた彼らは、代表数人とともに、日本の守備隊長である中川州男大佐のもとを訪れます。
平素、温厚な中川隊長なら、自分たちの頼み・・・一緒に戦う・・・を聞いてくれるに違いない。
そして中川隊長に、「自分たちも一緒に戦わせてほしい」と申し出た。
それを聞いた中川隊長は、瞬間、驚くような大声をあげた。
「帝国軍人が、貴様ら土人と一緒に戦えるかっ!」
・・・・・・
驚いた。日本人は仲間だと信じていたのに、・・・みせかけだったのか。。。。
村人たちは、日本人に裏切られた思いで、みんな悔し涙を流した。
そして、日本軍が用意した船で、パラオ本島に向かって島を去る日がやってきた。
港には、日本兵はひとりも、見送りに来ない。
村人たちは悄然として船に乗り込んだそうです。
そして、汽笛が鳴る。
船が岸辺を離れた。。。。
次の瞬間、
ペリリュー島に残る日本兵全員が、浜に走り出てきた。
そして一緒に歌った日本の歌を歌いながら、ちぎれるほどに手を振って彼らを見送った。
そのとき、船上にあった村人たちは、わかった。
日本の軍人さん達は、我々村人を戦火に巻き込んではいけないと配慮したのだ、と。
涙が出た。
岸辺に見える日本兵に向かって、村人たちは、号泣しながら、手を振った。
誰もが泣いた。ちぎれるほどに手を振った。
1944年9月12日、ペリリュー島をめぐる日米の戦闘の火ぶたは切られた。
島に立てこもる日本軍10,500名。
対する米軍総員48,740名。
そして航空機による爆撃、軍艦からの艦砲射撃を行う米軍は、すでに補給を断たれた日本軍の数百倍の火力を投下した。
最初に米軍は、は艦砲射撃と高性能焼夷弾の集中砲火を浴びせ、周囲のジャングルを完全に焼き払った。
そして9月15日、「2、3日で陥落させられる」との宣言の下、海兵隊を主力とする第一陣、約28,000名が島に上陸した。
対する日本軍は地中深くに穴を掘り、米軍の上陸を待ち構えていた。
米軍上陸直後の水際での戦闘は凄惨を極めた。
米軍の第一次上陸部隊は大損害を蒙り、煙幕を焚いて一時退却するという場面もあったという。
この戦闘によって米軍の血で海岸が赤く染まり、現在でもこの海岸には「オレンジビーチ」の名が残っている。