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マイケル・スコット、アップルについて語る(2)

Business Insiderによるアップルの初代CEOマイケル・スコットインタビュー、続きです。

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BI: あなたはCEOとしてアップルに来たわけですよね。すぐにCEOに就任した?

MS: そう。品番構成、銀行口座開設、社員番号制度。誰もやらないことをやった。

BI: 社員番号はどれくらい大事なものですか? あなたは数字の7がお好きだから7にした、と言われましたが。

MS: 給与支払名簿はつくらないといけない。それに、労力を最小限にするためにバンク・オブ・アメリカの給与支払システムに契約した。当時は他に方法がなかった。社員に番号を割り当てる必要があったんだ。

誰がアップルの1番目の社員か。そのことを聞きたいんだろう? 当然、ふたりのスティーブがいずれも1番を欲しがった。ただ私はジョブズには1番を与えなかった。彼には過ぎると思ったのさ。ウォズだったか、マークラだったかは覚えていないが、1番はどちらかだ。ジョブズはすでに問題児だったから、1番ではなかったよ。

このころはみんな、大げさではなくて1日20時間ぐらい働いていた。会社の成長速度を考えると、社員を増やすことはできなかった。ひとつの仕事が終わったらすぐ次、の連続だ。担当以外の仕事をすることも多かった。

BI: Sherry Livingstonの話は、まだ出てきていませんね。彼女はNationalから引っ張ってきたんですか? 最初は秘書として雇ったんでしょうか。

MS: 彼女は私たちの右腕だった。彼女が来たときにはまだ社員は5、6人だった。受付、電話番、全ての秘書業務を彼女がこなした。彼女がいないと何もできなかった。経理としてGary Martinが来たときには、私のデスクの下に置いてあるダンボール箱があった。「ここに必要なレシートや伝票があるから、整理しておいてくれ」と言わないといけないぐらい、とにかくヒマがなかったんだ。

BI: 創業当時、人材を探すのは難しかったでしょうか。当時はスタートアップの土壌も今ほど醸成されていなかったと思うのですが。

MS: 人材を社風になじませたり教育したり、ということに使える時間は限られていたね。そもそもそういうものはまだなかった。アップルの社風はあとからできたものだ。Apple Iの製造を止め、現金収入がないときだ。Apple IIを世に送り出し、売れなければもう商売はできない。マークラが25万ドルを投じてはじめて商売ができる状態だった。

BI: 当時の社の雰囲気はどんなものでしたか?

MS: そうだね、朝、ホルトがコーヒーを皆にいれるのが決まりだった。彼は非常に濃いコーヒーが好きで、あまりに濃いもんだから、みんな永久に起きていられるんじゃないか、と思うほどだったよ。これについてはその後大騒動があった。

名前は忘れたが、インテルの創業者のひとりの奥さんのAnn Bowersが、アップルで最初の人事部長だった。2、3年後のことだ。彼女がこれにハマってしまい、言ったのが、従業員にコーヒーを飲ませるべきじゃない、不健康だから、ということだった。私は言ったんだ。「それはだめだ」とね。当時は委員会もなかったし、投票で決める必要もなかった。

まあ、とにかく大変だったのは、ジョブズだ。私もジョブズも負けず劣らず頑固だった。私のほうが勝っていた、と思うよ。

別の問題は、会議のテーブルに乗ったスティーブの汚い足とサンダルだ。彼が会議テーブルの一方の端に座り、マークラがもう一方の端に座ってタバコを吸い続ける。おかげで天井に特別なフィルターを取り付けて、空気をキレイにしないといけなかったんだ。一方にはヘビースモーカー、もう一方には汚い足の面々、という具合さ。[聞き手笑] その時は本当に笑い事ではなかったんだよ。みんなムカムカしていた。

BI: アップルに来るとき、躊躇はなかったんでしょうか。大きな役割だと思われますが。こんなものだ、と思われたのか、それとも、驚かれたのか、どちらでしょう。

MS: 私としてはチャンスだと思ったね。当時私はNational Semiconductorで製品ラインを管理していた。収益部門もあり、営業や経理、また製造エリアもカバーしていた。ちょうどその頃、社長の申し出を断っていたCharlie Sporckの申し出があったが、それを辞退した。彼が私に香港の工場長のポジションを打診してきたんだ。ただ、それは私にしてみれば技術分野から遠くはなれてしまうことを意味していたし、アメリカから離れるのもいやだった。だからマークラが新しい会社をやらないかと聞いてきたとき、これまでの私の経験を活かすチャンスだと思ったんだ。

アップルに応用した一番重要なことは、製造、それからスタッフの組織に関するものだ。性急に物事を決めないことにした。半導体工場での経験が機能するはずだ、ということだ。

アップルでは、全てを柔軟に、必要があれば変更が加えられるようにデザインすることにした。他には、アップルでは認めない経理上のルールを設けた。今でも覚えているが、Nationalでは金の価格変動による配当があったが、価格が変わると私が持ち出さないといけないケースもままあった。私にしてみれば、全く意味のないことだ。まさに官僚主義のなせる技、とでもいうのかね。

BI: あなたがアップルを去るとき、やはりジョブズとの対立があったのでしょうか。それが引き金になった?

MS: それはちがう。二人のスティーブ、そしてマークラと様々な取り決めを行った。支持が得られなくなれば、留まる理由もない。1500人の従業員を抱えるまでになり、役に立たなくなった社員50人を解雇した。もう、十分だったんだ。私には。私はアップルを十分知らしめた。だから、アップルを辞めたんだ。

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上司として「ジョブズは問題児だった」と言える人がこの世に何人いるのか(笑)、と思うと、極めて貴重なご意見であると思われます。



- マイケル・スコット、アップルについて語る(2) | 田園Mac

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