家族家庭であるため貧しく、「下着が足りずノーパンで通学した」「種子島宇宙センターからロケットが打ち上げられるときには家が揺れるので家族全員で家具を支えた」などのエピソードがある[4]。また、種子島では間食代わりに草を食べていたが、東京で草を食べたところ不味く、東京の草は不味いと怒っていた[2]。また、芸能界デビュー後も花を見ると綺麗かどうかより「食べられるかどうか」を最初に考えるという。
15歳になったら独立する家の決まりがあったが、この理由について「家が貧乏だから」と思い込んで両親を恨み[5]、両親に黙って鹿児島市の高校に進学、先に鹿児島に住んでいた姉の家に身を寄せ、自ら学費を稼ぎながら通学する[4]。だが学校に馴染めずクラスから浮いてしまい、学費を稼ぐためのアルバイトも「夜働いている」「遊びまくっている」など事実無根の噂が立つこととなる。そして、帰り道に2人組の男に襲われる被害に合い「最悪の出来事」と思っている[4]。翌日に高校を退学処分となり[6]、程なくしてレディースに加入する[3]。
高校中退から芸能界デビューまで
見かねた姉の勧めによりレディースから抜けようとするも、他のメンバーから袋叩きに遭うが、姉のレディースへの必死の説得により脱退を許される。その直後、姉の呼びかけにより東京に移る。芸能事務所の面接を受けたところ、前述の袋叩きで傷だらけの顔の上原を見た面接官は驚いたが、何とか合格する。
その後姉が上原の新しい服を買った際、今までの服を全部捨てたことを知った上原は、怒って姉に暴行を加えたこともあった。また、20歳のときには恋人に振られた寂しさから睡眠薬自殺を図ったが、一命を取り止めた[4]。
仕送りとして家に5,000円を送っていたが、後に母から「自分で稼いだお金だから自分で使いなさい」と通帳を手渡され、兄や姉の仕送りも、妹達が自分達みたいな苦労をして欲しくないとの理由であった。そして上原の新しいランドセルや洋服は全て兄や姉からのプレゼントであることをこの時知った。自分がテレビ番組に出演するようになってバラバラだった家族がひとつになったと語っている[2]。
2006年、桜井ひな、藤崎まやと共にフォーミュラ・ニッポン「ディレクシブレーシングガールズ」としてレースクイーンデビューをするが、チームの突然の撤退により第5戦までで活動終了。 2007年、「sabraブロガール選手権」出場。その後ブランクもあったが、「種子島出身の貧乏アイドル」として人気に火が付き、2008年夏頃からテレビのバラエティ番組にも多数出演するようになった。
2009年5月には自叙伝である『10人兄弟貧乏アイドル☆ 私、イケナイ少女だったんでしょうか?』が出版される。「泣きながら書いた」[4]という父や母にも黙っていた体験を綴っている。
しかし、その母が2010年3月29日、心筋梗塞で他界。上原本人は仕事で最期を看取れなかったものの、家族全員で揃って葬儀を終えた。
”- 上原美優 - Wikipedia