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"表現の何をもって「ひどい」と感じるかは、文化と時代性に応じて変化するものなので、法で規制しようとしても、個人個人で解釈の幅が異なり、結果として拡大解釈を招く恐れがあるからです。 これについて..."

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表現の何をもって「ひどい」と感じるかは、文化と時代性に応じて変化するものなので、法で規制しようとしても、個人個人で解釈の幅が異なり、結果として拡大解釈を招く恐れがあるからです。

これについて、俺が思い出すのは1991年に亡くなったルポライター・竹中労の言葉です。竹中は日本で最初に「ルポライター」を名乗ったフリーのジャーナリストで、芸能評論家。戦後すぐに日本共産党に入党しましたが、その後共産主義に失望して離党、以降は左右を弁別しない「アナーキスト」として、芸能評論から社会問題まで、広い分野での文筆活動に生涯を費やしました。

これから紹介する文章は、竹中の死後出版された『ルポライター事始』(ちくま文庫)に俺が寄稿した「解説文」です。ご遺族の指名で書くことになったのですが、俺は生前の竹中氏にお会いしたことがなく、とても緊張しました。

俺が書いたのは、亡くなる直前の1989年暮れに竹中が出演した、深夜テレビ討論番組の思い出です。ちょうど宮崎勤事件が世情を騒がせていた直後の時期で、その時の番組テーマが「有害なホラービデオを規制するべきか?」というものでした。

もともと竹中は60年代から70年代にかけて多くのテレビ番組にコメンテーターとして出演していたのですが、80年代にはほとんどテレビに出なくなっていました。執筆に専念したいという理由だったようです。それが、80年代の終わりになって、いきなりテレビに出るようになりました。

「なんでテレビに出るようになったのだろう」と俺は不思議に思っていたのですが、ほどなくその理由がわかりました。竹中は末期ガンに冒されていたのです。余命一年と医師に告げられ、もはや一刻の猶予もないことを悟った竹中は、自ら禁じていたテレビに出て、書き残したことを世に訴えたいということだったようです。

その番組では竹中の他に著名な政治家や文化人が出演していましたが、「表現はどこまでも自由であるべきだ」と明解に主張したのは竹中だけでした。

「表現の自由は確かに大切ですが、明らかにひどい表現は規制するべきでしょう」と、衆議院議員(当時)の柿沢弘治が発言したときの竹中の怒りはすさまじく、「小僧、表に出ろ!」と怒鳴りつけたかと思うと、「その表現を“ひどい”と誰が決めるんだ? たとえ“馬の糞”であろうが表現は自由なんだ!」と叫んだのでした。

このときの竹中の気迫は、凍り付いた柿沢代議士の表情とあわせて、俺は一生、忘れることはないでしょう。

竹中労は「喧嘩の竹中」として知られていました。芸能ルポの代表作『美空ひばり』では、ひばりのパトロンが「日本のドン」と呼ばれた山口組三代目組長・田岡一雄であることをスッパ抜き、大騒動を巻き起こすなど、一切のタブーを恐れない竹中の姿勢は、熱狂的なファンを持つとともにマスコミからは敬遠され、その晩年は、文筆家としては、恵まれていたとはいえなかったかもしれません。しかし、遺された著作とともに、あの日の番組の記憶は俺の宝物であります。<つづく>



- “馬の糞”でも表現の自由(1): たけくまメモ

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