学者、文人という平和的なイメージを持つ菅原道真であるが、政治家でもあったことから死後の魂が怨念に支配されることになり、よく知られているように、神としてのデビューは日本でも最強レベルの恐ろしいパワーを発揮する怨霊としてであった。
道真が太宰府で死んだ頃から、都では天変地異が続くようになり、まず道真を讒言した張本人の藤原時平が39歳で急死。 疫病がはやり、日照りが続き、20年後には醍醐天皇の皇太子が死亡、次の皇太子も数年後に亡くなり、人々はすべて菅公の怨霊の祟りとして恐れた。 きわめつけは、延長8年(930)に宮廷の紫宸殿に落雷があり、死傷者が多数出たことであった。
これにより、道真の怨霊は雷神と結びつけられることになった。 もともと教との北野の地には、農作物に雨の恵みをもたらす火雷天神という地主神が祀られていたことから、それが道真の怨霊と合体したものといわれる。 そこで怨霊の怒りを鎮めるため、天暦元年(947)にこの地に北野天満宮が創祀されたのである。 その後、永延元年(987)に勅祭(天皇が命じた特使による祭祀)が行われ、このときに正式に「北野天満宮大神」と称号されるようになった。
この世に怨念を残して死に、のちに現世に祟りをなす死者の霊を御霊(ゴリョウ)という。 日本ではなら時代以降、この御霊が疫病などさまざまな災害をもたらすと考える風潮が盛んだった。 そのため御霊を神に祀り上げて、その怒りを鎮めようとして生まれたのが御霊信仰である。 道真も最初は、そうした御霊信仰のなかで神さまとしてスタートしたのである。
同時に、雷神との結びつきという点では、雷=雨=農作物の成育という信仰から、農耕神としての性格も強く持っているといえる。 さらにいえば、日本の農耕信仰では、古くから北野の火雷天神のような天から降ってきた神を祀る天神社(古くから農耕民族にみられた天神信仰)が各地にあった。 道真の御霊が火雷天神と合体したことによって、やがて各地の天神社の祭神も道真=天神様とされるようになったのである。
菅原道真もはじめは恐ろしい怨霊として、天満大自在天とか日本太政威徳天といったごつい名前で呼ばれたわけであるが、その意味するところは、数多くある御霊を支配し統御する偉大な神霊ということだ。 そういう神さまが、やがて学問の神として信仰されるようになった理由は、ひとえに御霊としての活動がだんだん静まったことによる。 平安時代から鎌倉初期に作られた「天神縁起」には、天神様を慈悲の神、正直の神として信仰する風潮がうかがえる。 そうやって怖さが薄れると人々の関心は、詩歌、学問に優れた道真の人物や業績といった面に向くようになった。
道真が空海や小野道風と並び”書道の三聖”といわれて崇められるようになったのもその時期からだろう。 こうしてできあがったのが、今日我々が親しんでいる天神様のイメージなのである。
”- 菅原道真