“ 自動車王ヘンリー・フォードも反ユダヤ主義に染まった人間のひとりだった。
1920年代、彼は当時としては破格の日給5ドルを全従業員に保障した、人道主義的会社経営者と見なされていた。工場には3000名ものユダヤ人を雇用し、ユダヤ教のラビ(司祭)とは家族ぐるみのつきあいを続けてもいた。その彼が、なぜ一方で激烈な反ユダヤ・キャンペーンを展開したのか。
原因は「シオン賢者の議定書」にあった。海外では「プロコトル」のワン・プレーズで通じる、世界で最も悪名高い偽書である。世界支配を企むユダヤの長老たちによる指令書というふれこみで、ロシアから世界へ広まった。日本語版は1919年に出版された。
アメリカでは、フォードの買収した週刊新聞紙「ディアボーン・インディペンデント」が、1920年夏から特集記事を連載したことに始まる。のちにこの内容は「国際ユダヤ人」のタイトルで書籍化され、16ヶ国語に翻訳、出版された。
1921年には早くもドイツ語版の第1巻が出版され、33年まで売れ続けたという。ヒトラーによる政権獲得は33年1月30日のこと。第一次大戦後の途方もない賠償金支払いに苦しめられていたドイツ国民は、不当なヴェルサイユ条約を受け入れたのは、仲間内の利益だけを求めたユダヤ人資本家による陰謀だったという説を信じた。
フォードの名声が「国際ユダヤ人」の売れ行きを後押ししたことは間違いない。それが歴史上、前例を見ないほどの悲惨な結果をもたらしたのだ。国際的ユダヤ人金融勢力=悪いユダヤ人、地域社会で働いて暮らすユダヤ人=善いユダヤ人という区分を、フォード自身が信じていたとはいえ、世界に波及した結果の重大性を考えると、彼の罪深さにはコメントする気力も起きない。
しかしながら、そのドイツに、1930年代半ば、つまりナチスが政権を取って以降も、500名近いアメリカ生まれのユダヤ人が医科大学へ留学していた。方向が逆ではないか、進学先を間違えたのではないか、と誰もが疑う数字だ。驚き以外のなにものでもないが、ユダヤ人学生は毎年1000名ずつ、風雲急を告げるヨーロッパ各国の医科大学へ進んでいたのである。
アメリカの大学が門戸を閉ざしていたために。
20世紀初頭、アメリカで成功する条件は大学卒の肩書きではなかった。進学する者はまれで、大学は学力によって学生を選ぶ側ではなく、裕福な階級の若者たちから選ばれる側だった。
第一次大戦後、その状況が一変した。発展する産業界の求人条件に合わせ、大学は紳士養成の場ではなく、専門知識を持った職業人育成のそれになった。そこに東欧系ユダヤ人移民2世が殺到したのである。
アメリカの全人口に占めるユダヤ人の割合は3パーセントにすぎなかったが、大学生のそれは10パーセント近くになる。加えて、彼らは非常に目立つ、ある特徴的な行動を取った。寮の部屋では勉学に励み、教室では議論を闘わせ、より高い点数、よりよい成績のために同級生を打ち負かしたのだ。
社交性が評価され、リーダーシップやスポーツマンシップが賞賛される、それまでの大学生生活はどこへ行ったのか……。ニューヨーク大学では1919年、ユダヤ人新入生の数を制限するよう、署名活動が行われている。最初のクオータ・システム――特定の人種的・宗教的少数派集団に対する差別的入学定員制度――が導入されたのも同じ年。コロンビア大学においてであった。
アメリカの大学は卒業生の寄付金なしでは運営できない。大学が東欧系ユダヤ人学生を締め出そうとしたのは、人種的・宗教的な差別意識ゆえではなく、金銭的な理由だったと思われる。彼らは奨学金を受けるばかりで、たとえば奨学金基金への寄付などをしない、つまり大学側になんら還元していないと判断されたのだ。
ヘンリー・フォードのユダヤ人二元論は珍しい発想ではなかった。クオータ・システムを導入した大学にとっても、「望ましいユダヤ人」と「望ましからざるユダヤ人」というふたつの集団の違いは明確だった。
前者は19世紀中葉から1880年までに来住し、アメリカ社会の価値観に同化していた裕福なドイツ系ユダヤ人。彼らの子弟は、白人プロテスタントの中産階級と同じ全寮制の私立中高等学校(プレップ・スクール)を卒業し、大学に進学してきた。
後者は東欧系ユダヤ移民の第2世代で、数からいえば当時のユダヤ人学生の大部分を占めた。貧しい正統派ユダヤ教徒の家庭で育ち、大学教育をそこからの脱出の手段と見なしていた。
両者はユダヤ人という出自以上の共通項を持たなかった。
進学先に偏りがあったことも、東欧系ユダヤ移民2世を排斥に向かわせた理由だったろう。彼らの願書はプロフェッシナル・スクール、つまり医学系、歯学系、薬学系、法学系に集中した。
もともとユダヤ社会で尊敬されていたのは、タルムード(ユダヤ教の律法)を知り、解説する学者だった。それがアメリカ社会での成功者、すなわち医師、弁護士への尊敬に変わったのだろう。大企業への就職が期待できない当時、資格さえ取れば高収入の見込める自営専門職は、東欧系ユダヤ移民2世の最善の選択肢だと思われた。医師はとりわけ、収入と社会的地位の高さが魅力的だった。
既得権を持つ者は、いつでも新参者を排除しうる。1929年の大恐慌以降、全米医師会は医科大学に入学定員の削減を求めた。医科大学はその要請に応じたが、実際の学生数の減少はわずか5パーセントだった。そのなかにユダヤ人学生の3割から半分が含まれていた事実は、どういうトリックを使ったのかと不思議に感じるほどだ。
ユダヤ人学生の側も打開策を探した。併願校の数を増やし、生まれ育ったニューヨークから中西部や南部の大学へ進もうとした。1928年、インディアナ大学の医学部の志願者のうち、61パーセントがニューヨーク出身者だったという。やがて中西部や南部の大学でもクオータ・システムが導入されると、ユダヤ人学生はわずか10校しかなかったカナダの医科大学へと志望を変えた。
こうなってくると、いたちごっこである。突然、前年比2倍の応募者を迎えた大学側も困惑したに違いない。しかも、それがたったひとつのエスニック・グループの学生なのだ。警戒されるのも無理はない。
頑固というか、なりふり構わないというか、ユダヤ人学生の志望先には黒人校までもが加えられた。1935年、ワシントン特別区にある黒人校ハワード大学(注2)の医学部には、黒人学生の2倍の数のユダヤ人学生が殺到した。テネシー州にある黒人校マハリー医科大学では、このころ、年に15名から25名のユダヤ人学生の願書が届いていたという。
医学系を諦める学生も出てきたが、クオータ・システムは歯学系、薬学系でも強化されていく。そこで、ユダヤ人学生は海を渡った。ヨーロッパへ向かったのである。
1920年代から始まり、30年代に本格化した留学先は、同じ英語圏のスコットランドやイングランドにとどまらず、イタリア、スイスへも広がった。ドイツ、オーストリアでは前述のように500名前後。医学の中心地と見なされていたにせよ、すでに反ユダヤ主義が激化していたはずなのだが……。”
- アメリカのユダヤ人迫害史 - Moriya’s Flask (via petapeta)
1920年代、彼は当時としては破格の日給5ドルを全従業員に保障した、人道主義的会社経営者と見なされていた。工場には3000名ものユダヤ人を雇用し、ユダヤ教のラビ(司祭)とは家族ぐるみのつきあいを続けてもいた。その彼が、なぜ一方で激烈な反ユダヤ・キャンペーンを展開したのか。
原因は「シオン賢者の議定書」にあった。海外では「プロコトル」のワン・プレーズで通じる、世界で最も悪名高い偽書である。世界支配を企むユダヤの長老たちによる指令書というふれこみで、ロシアから世界へ広まった。日本語版は1919年に出版された。
アメリカでは、フォードの買収した週刊新聞紙「ディアボーン・インディペンデント」が、1920年夏から特集記事を連載したことに始まる。のちにこの内容は「国際ユダヤ人」のタイトルで書籍化され、16ヶ国語に翻訳、出版された。
1921年には早くもドイツ語版の第1巻が出版され、33年まで売れ続けたという。ヒトラーによる政権獲得は33年1月30日のこと。第一次大戦後の途方もない賠償金支払いに苦しめられていたドイツ国民は、不当なヴェルサイユ条約を受け入れたのは、仲間内の利益だけを求めたユダヤ人資本家による陰謀だったという説を信じた。
フォードの名声が「国際ユダヤ人」の売れ行きを後押ししたことは間違いない。それが歴史上、前例を見ないほどの悲惨な結果をもたらしたのだ。国際的ユダヤ人金融勢力=悪いユダヤ人、地域社会で働いて暮らすユダヤ人=善いユダヤ人という区分を、フォード自身が信じていたとはいえ、世界に波及した結果の重大性を考えると、彼の罪深さにはコメントする気力も起きない。
しかしながら、そのドイツに、1930年代半ば、つまりナチスが政権を取って以降も、500名近いアメリカ生まれのユダヤ人が医科大学へ留学していた。方向が逆ではないか、進学先を間違えたのではないか、と誰もが疑う数字だ。驚き以外のなにものでもないが、ユダヤ人学生は毎年1000名ずつ、風雲急を告げるヨーロッパ各国の医科大学へ進んでいたのである。
アメリカの大学が門戸を閉ざしていたために。
20世紀初頭、アメリカで成功する条件は大学卒の肩書きではなかった。進学する者はまれで、大学は学力によって学生を選ぶ側ではなく、裕福な階級の若者たちから選ばれる側だった。
第一次大戦後、その状況が一変した。発展する産業界の求人条件に合わせ、大学は紳士養成の場ではなく、専門知識を持った職業人育成のそれになった。そこに東欧系ユダヤ人移民2世が殺到したのである。
アメリカの全人口に占めるユダヤ人の割合は3パーセントにすぎなかったが、大学生のそれは10パーセント近くになる。加えて、彼らは非常に目立つ、ある特徴的な行動を取った。寮の部屋では勉学に励み、教室では議論を闘わせ、より高い点数、よりよい成績のために同級生を打ち負かしたのだ。
社交性が評価され、リーダーシップやスポーツマンシップが賞賛される、それまでの大学生生活はどこへ行ったのか……。ニューヨーク大学では1919年、ユダヤ人新入生の数を制限するよう、署名活動が行われている。最初のクオータ・システム――特定の人種的・宗教的少数派集団に対する差別的入学定員制度――が導入されたのも同じ年。コロンビア大学においてであった。
アメリカの大学は卒業生の寄付金なしでは運営できない。大学が東欧系ユダヤ人学生を締め出そうとしたのは、人種的・宗教的な差別意識ゆえではなく、金銭的な理由だったと思われる。彼らは奨学金を受けるばかりで、たとえば奨学金基金への寄付などをしない、つまり大学側になんら還元していないと判断されたのだ。
ヘンリー・フォードのユダヤ人二元論は珍しい発想ではなかった。クオータ・システムを導入した大学にとっても、「望ましいユダヤ人」と「望ましからざるユダヤ人」というふたつの集団の違いは明確だった。
前者は19世紀中葉から1880年までに来住し、アメリカ社会の価値観に同化していた裕福なドイツ系ユダヤ人。彼らの子弟は、白人プロテスタントの中産階級と同じ全寮制の私立中高等学校(プレップ・スクール)を卒業し、大学に進学してきた。
後者は東欧系ユダヤ移民の第2世代で、数からいえば当時のユダヤ人学生の大部分を占めた。貧しい正統派ユダヤ教徒の家庭で育ち、大学教育をそこからの脱出の手段と見なしていた。
両者はユダヤ人という出自以上の共通項を持たなかった。
進学先に偏りがあったことも、東欧系ユダヤ移民2世を排斥に向かわせた理由だったろう。彼らの願書はプロフェッシナル・スクール、つまり医学系、歯学系、薬学系、法学系に集中した。
もともとユダヤ社会で尊敬されていたのは、タルムード(ユダヤ教の律法)を知り、解説する学者だった。それがアメリカ社会での成功者、すなわち医師、弁護士への尊敬に変わったのだろう。大企業への就職が期待できない当時、資格さえ取れば高収入の見込める自営専門職は、東欧系ユダヤ移民2世の最善の選択肢だと思われた。医師はとりわけ、収入と社会的地位の高さが魅力的だった。
既得権を持つ者は、いつでも新参者を排除しうる。1929年の大恐慌以降、全米医師会は医科大学に入学定員の削減を求めた。医科大学はその要請に応じたが、実際の学生数の減少はわずか5パーセントだった。そのなかにユダヤ人学生の3割から半分が含まれていた事実は、どういうトリックを使ったのかと不思議に感じるほどだ。
ユダヤ人学生の側も打開策を探した。併願校の数を増やし、生まれ育ったニューヨークから中西部や南部の大学へ進もうとした。1928年、インディアナ大学の医学部の志願者のうち、61パーセントがニューヨーク出身者だったという。やがて中西部や南部の大学でもクオータ・システムが導入されると、ユダヤ人学生はわずか10校しかなかったカナダの医科大学へと志望を変えた。
こうなってくると、いたちごっこである。突然、前年比2倍の応募者を迎えた大学側も困惑したに違いない。しかも、それがたったひとつのエスニック・グループの学生なのだ。警戒されるのも無理はない。
頑固というか、なりふり構わないというか、ユダヤ人学生の志望先には黒人校までもが加えられた。1935年、ワシントン特別区にある黒人校ハワード大学(注2)の医学部には、黒人学生の2倍の数のユダヤ人学生が殺到した。テネシー州にある黒人校マハリー医科大学では、このころ、年に15名から25名のユダヤ人学生の願書が届いていたという。
医学系を諦める学生も出てきたが、クオータ・システムは歯学系、薬学系でも強化されていく。そこで、ユダヤ人学生は海を渡った。ヨーロッパへ向かったのである。
1920年代から始まり、30年代に本格化した留学先は、同じ英語圏のスコットランドやイングランドにとどまらず、イタリア、スイスへも広がった。ドイツ、オーストリアでは前述のように500名前後。医学の中心地と見なされていたにせよ、すでに反ユダヤ主義が激化していたはずなのだが……。”
- アメリカのユダヤ人迫害史 - Moriya’s Flask (via petapeta)